映画『そばかす』を見て思ったことあれこれ

最初はMastodonに感想を書き連ねたのだが、あまりにもスレッドが長くなってしまってちゃんと投稿できているかわからなくなったので、ブログにまとめることにした。

ネタバレ・パンフの内容を大量に含んでいるのでご注意を。

 

僕の同居人はAロマで、Aロマの人と生活している。僕自身もロマンティック・ラブイデオロギーに身を任せて恋愛はしてきたと思うけど、最近揺らぎを感じ始めてる。そういう立場で見てきた。

 

フォロワーが言ってた通り、前田敦子が演じる真帆というキャラが良いし、前田敦子の演技も良い。
特にシンデレラのストーリーを批判して新しく作り替えることを提案するシーンや、お父さんに怒るシーンは、涙ぼろぼろになりながら見た。諦めがある人からすれば、真帆のような存在は眩しいぐらいかもしれない。元セックスワーカーの表象としてもポジティブなものを感じた。

 

ただ、主人公の佳純と真帆の描写で残念に思うこともあった。Aロマと同居している身(一応Aロマ自認ではない)からすると、同居計画していたのにそれは佳純の夢物語で終わってしまって、「ごめん、やっぱり元彼と結婚します」の流れは、AロマはAロマ同士じゃないとやっていけないの?という疑問を抱いてしまう。佳純が真帆に対して全く怒らず祝福しているのは佳純の率直な態度と誰も否定しない選択を示したものだろうけど、一緒に映画を見に行った同居人も同じくその流れについて残念に思ったらしい。つい僕はそんなふうに同居解消をしたくないという謎の意地が出てきてしまった。

 

そして、ここは同居人と感想が違ってて興味深いと思ったところ。
最後に出てくる同僚の男性とのエピソード。同僚の男性とは、恋愛・性愛の目線を交えなくても良いし、自分と同じように感じている誰かが他にも存在しているということを示すエピソードだったけど、その同僚はかなり物静かに描かれており、飲み会もあっさり断るほど。僕はオフラインだと彼に近いというか、特にまだ知り合って間もないとあんな感じで、「主人公に仲間ができてよかったよかった」とあっさり思って見ていた。
一方、同居人は「感情を持っているのにAロマは感情がない人間として描かれがちだから、あのキャラクターは静かな性格がゆえにステレオタイプっぽいのが残念だった。」と言う。たしかにAロマ同士だから、喫茶店でそれぞれ本を読んで少ししか話さないというふうに勘違いされるように映るかもしれない。前半にあった、後々に佳純に恋心を抱くお見合い相手の木暮とのイキイキとしたやりとりと対比すると、そのステレオタイプはさらに強化されていく。もっともな指摘だと思う。

 

また、レズビアンという言葉が出てくるのに、Aセクシャル・Aロマンティックという言葉が出てこない件についても考えたい。
僕はノンバイナリーの自認も遅かったし、自分の恋愛指向について疑問を持ち始めたのも最近のことだ。イギリスの大学を卒業して、英語の情報にアクセスができる身でも、遅かった。ノンバイナリーとAセクシュアル・Aロマンティックに共通するところは、自認することの難しさのように思う。パンフレットのインタビューで三浦透子さんが話しているように恋愛規範によって「まだいい人に出会えてないだけでは?」と言われ続けて、その概念まで辿り着くことのできないリアルがある。ノンバイナリーも、この世は男と女しかないという二元論によって「性別役割(ジェンダーロール)が気に食わないだけでは?」と言われたりする。ちょっと質は違うけど、規範による自認の難しさがあるから、Aロマ・Aセクだってセリフに明示されないことも一つの表象の在り方なのではないかと思う。『そばかす』以外にAロマの主人公が出てきた日本の映画として、今年見た『ミューズは溺れない』という作品があるのだが、こちらもレズビアンという言葉が出てきても、Aロマなんて言葉は出てこない。登場人物が若い(高校生)ということもあってそれはそれでまた現実的だと思う。一方で、NHKドラマの『恋せぬふたり』では、高橋一生の役がブログを通してAロマAセクを解説するような形ではっきりと現れる。これもまた今起きている現実だと思う。
日本の場合、L・G・Bとバイナリーのトランスあたりは、もうはっきり言っていかないとそれは漂白のように感じても仕方ないと思う。ただ、Aロマ・Aセクは、ノンバイナリーと近しい状況で、まだまだアクセスしづらい概念であり、とても大きな規範に挑戦している実存でもある。だから、今回Aロマ・Aセクと言わないことがダメと一概に批判できないなと感じた。
ただ、脚本家がAロマ・Aセクの物語だと言ってるのに観た人が勝手に「これはAロマ・Aセクの話じゃなくて〜」と勝手に漂白していくのは論外で、それはいけないと思う。当事者からも丁寧に聴き取りをして作られた作品であることから、当事者を踏む行為と言えるだろう。
もちろん、僕はAロマ・Aセクだってはっきり言う人物が出てくる作品もほしい。『作りたい女と食べたい女』の原作ではAセクシャルの女性が出てくる。彼女ははっきりとAセクシャルであることを主人公に伝えている。そういう描写が出てくる作品だってほしい。
あと、パンフレットでAロマ・Aセクを明言していない件について監督が「名前をつけてしまうと、一部の人から「そういう特別な人の話なんだ」みたいに客観的に捉えられてしまうかもしれない。それは避けたい」と言っていて、ここはあまり同意ができない部分である。
たしかに具体的な話にした方が伝わるのはわかる。自分のカミングアウトの経験から、ただ「ノンバイナリー」とつきつけては理解してもらえないということは痛いほどわかっている。ただ、もうマジョリティのためにそういう「配慮」をすることに僕たちはウンザリで、具体的な在り方とともにカテゴリやラベルを伝えて何が悪いのだ。叫んでやりたいぐらいだといつも思ってる。カテゴリ・ラベルには、良い面も悪い面もあることはわかっているが、僕はノンバイナリーという言葉を通じて近しい経験をしている人をたくさん知ることができたし、良い面が悪い面を上回っていると思っている。ステレオタイプというのは結局のところマジョリティが作って再生産してきたもので、それこそエンタメやメディアの責任は大きい。監督はそれをわかっているんだろうか?ステレオタイプの打破のためにも、やるべきことは、当事者を尊重した多様な表象づくりであって、マイノリティが築き上げてきたカテゴリやラベルを消すマジョリティ配慮ではない。

 

それから、児玉美月さんが『「ゴールイン」ではなく「スタートライン」へ』という文章を寄せていて、タイトルを見て思い出したことがある。ちょうど俳優の町田啓太さんがクリスマス婚したというニュースで「ゴールイン」と報道していたメディアだ。
僕はそれを見た時即座に「結婚=ゴールインなんて勝手に決めるなよ!」とツッコミを入れていた。結婚がゴールなんて脆すぎるし、劇中の茶の間に映し出されていたテレビでは、結婚報道から不倫報道に変わる。そうでなくとも、いろんな場で佳純を通じて結婚や恋愛というものが押し付けられる世界を描き、また他人の恋愛に干渉しすぎる世の中を多角的に映していたように思う。

 

児玉さんのレビューは本当に良かったのでぜひ読んでほしい。児玉さんのレビューで好きなところは、映画執筆家ならではと言うべきか、他の作品の表象も含めた批評となっていてるところで、読むたびに、言及されている作品を見てみたいなと思ったり、「うん、そうそう」と頷いたり、「たしかにそうかも!」と新しい発見をしたりする。児玉さんの文章やコメントが載るパンフレットでは、これをいつも楽しみにしている。今回の場合は『あのこは貴族』が気になった。劇中で言うと、佳純と真帆のシスターフッドの描写について言及したところである。また、Aロマ当事者のそばにいる者として疑問に思うところはあるものの、この映画を見てみんなに勧めたいと思うのがなぜなのか、この文章によくまとまっている。気に入った箇所を引用する。

恋愛しない属性の人物やそうした主題を描くにあたっては、決して恋愛する人や恋愛そのものへ憎悪や嫌悪を向けてはいけない。そうではなく恋愛至上主義や恋愛規範が問題なのだとする。そのバランスを『そばかす』は繊細に調合しているように思える。

 

感想めちゃ長くなったけど、本当に見に行って良かったと思うし、今後どんどんAロマ・Aセクの作品、この世の中の規範にまっすぐに立ち向かう作品が作られるような流れになってほしいと思った。