『エゴイスト』とBL

下記の文章は、『エゴイスト』という作品の感想において、「BLと違って〜」という表現がよく用いられることに発端して書かれている。

定まったクリアな結論はないが、思ったことを書き留めておきたいと思う。

(あまり綺麗にまとまらなかったので、ぽつぽつ思ったことを書いてるんだなという認識で読んでほしい)

 

まず、BLとは、ざっくり言えば、男性同士の恋愛・性愛の関係性を描くフィクションである。一から作るオリジナル作品もあれば、既存の作品から男性キャラクター同士の親密さを見出し二次創作する場合もある。作り手も消費者も主に女性だと考えられてきた。

 

一方、『エゴイスト』は高山真という作家の自伝的小説で、ゲイの恋愛・性愛、母親との関係を描いている。主演の鈴木亮平はゲイ当事者が自分達のこととして楽しめるゲイムービーにしたいと度々インタビューで述べている。

当事者のコミュニティにきちんと共感してもらえるゲイムービーとして成立させたいという思いは強くありました(GQジャパン

自分の想像だけで作ってはいけないし、ゲイの方たちがこの映画を見たときに、違和感があるものにだけはしたくないなと思って、みんなでよく話し合いながら作っていきました。(フジテレビュー

こうした背景には、役者たちが勉強を重ねたことや、制作・宣伝広報にLGBTQ+の専門家を入れたことがある。このような姿勢・取り組みは、私が知る限り、とても高く評価されている。(日本のエンタメ業界は心配なので、今後これがスタンダードになってほしいと願う)

 

さて、エゴイストの何がBLと違うのか、はたまた本当に違うのか、違うという言説が持つ意味など、様々な視点から考えてみたいと思う。

 

先ほど述べた通り、BLはターゲットの消費者が主に女性であり、『エゴイスト』はゲイ当事者の視聴者を念頭に置いて作られてきた。そういった意味ではBLと『エゴイスト』に違いはあるだろう。ただ、BLの需要が女性側にあるという認識は、あまりにも物事を単純化しているのが事実だ。BLを楽しむゲイやその他の性的マイノリティも多く存在している。つまり、BLの消費者と『エゴイスト』の視聴者層がきっぱり分かれるとは思えないのだ。私の周りの友人・知人関係は偏っているが、実際に『エゴイスト』を観に行った人たちはBLを愛する人たちとほぼイコールであった。

 

また『エゴイスト』は自伝的小説という性質からノンフィクションの要素が強い。しかし、どこからどこまでが事実で、どこからが脚色なのかは、高山真氏が他界されている今では知りようがない。そして、映画化のために脚本を作ったりアドリブを入れたりすることでさらに映画ならではのオリジナリティが生まれ、事実から遠ざかっている可能性がある。そう考えた時に「(フィクションとしての性質を持つ)BLじゃない」と言い切れるだろうか。

 

映画における男性同性愛表象の歴史・変遷という観点からも、『エゴイスト』をBLじゃないと切り離してしまって良いのか懸念がある。児玉美月さんがパンフレットで冒頭に『おっさんずラブ』や『チェリまほ the movie』『his』などを挙げ、『エゴイスト』もその連なりの一部であることを示していたように思う。同性愛表象の多様性、変化を検証するにあたって、ゲイ映画とBLとすんなり分けるのは難しいように感じる。『エゴイスト』は先ほど述べた通り、当事者ファーストの取り組みがなされた画期的な作品である。しかし、今までのBLがそれを怠ってきたかというとそうではなくて、『チェリまほ the movie』では脚本にジェンダーセクシュアリティ研究者による監修が入り、『his』でも脚本家による綿密な取材が重ねられてきた。そうした着実な変化はBLにも見受けられてきたのだ。

 

それから、『エゴイスト』の物語としてキーになるのは同性愛表象だけではなく、浩輔と浩輔/龍太の母親との関係性の描写である。BLというジャンルでは、男性同士の関係性にフォーカスして描かれるため、これだけの重点を置いて家族との関係性を描くことは少ないだろう。その点が違うと言われれば、違いとして述べることができる。(しかし、BL全てがそうではなく、カミングアウトなどを通して家族との関係性を描く作品も増えつつある。)

 

さらに、BLとゲイ・クィア作品の境界線について海外の視点も含めて考えてみたい。BLとLGBTQの関係性について研究をしているジェームズ・ウェルカー氏は、2023年2月11日に行われた「セクシュアルマイノリティと医療・福祉・教育を考える全国大会2023」において、日本におけるBLと海外におけるBLの位置付けの違いについて、次のように述べた。日本ではファンカルチャーとしてBLは存在するが、海外(東南アジア、ヨーロッパ、北南米など)ではLGBTQメディアの一部として位置付けられている、と。ウェルカー氏はフィールドワークで、世界中のコミケや即売会などに参加した経験があり、海外のイベントではレインボーグッズが漫画作品と並べて売られていたり、婚姻平等のキャンペーンをしていたりするなどの現象を観測したとのことだ。また、セクシュアルマイノリティがBLを自分のカルチャーとして取り入れていることが当たり前なのだと見受けられる。このような現象を聞くと、BLとゲイ・クィア作品の境界線は段々と曖昧化されていくように感じるのは私だけだろうか。

 

BLについてよくゲイ当事者から言われることがある。それは「BLはファンタジー」であり「非当事者による都合の良いゲイの消費」であるということだ。たしかにフィクションであることから、ファンタジーであることは否めない。ハッピーエンドの作品が多く、ゲイ当事者が直面している差別や偏見を無視していると批判されやすい。加えて、性描写が様々なレベルで展開されており、そうした消費に違和感を覚える当事者も多いだろう。ただ、こうした批判は今に始まった話ではなく、「BLの教科書」や「BL進化論」といった本に詳しいのだが、やおい論争というものがあり、ゲイ当事者の批判とそれに呼応したBL作家の反省の歴史がある。その歴史を経て、今ではゲイ当事者やLGBTQ+の消費者を獲得している。また、そうした層からハッピーエンドは近い未来・希望を描く物語として受容されているのも事実である。性描写のイシューについても、すべてに性描写が含まれているわけではなく、全く性描写のない作品も一定数以上存在する。先ほど海外の話をしたが、海外に目を向けると、特に実写のBLには、当事者のリアルさを大事にしながら、ハッピーエンドを描く作品がどんどん増えている。(タイ、台湾、フィリピンなど)

 

そんな中で『エゴイスト』について「BLと違って〜」とわざわざ述べる意味とはどういうことか。「ゲイだったら本当は辛い現実を生きているのに勝手にハッピーにするな」「ゲイは恋愛・性愛が全てじゃない」「ゲイのセックスはあんなものじゃない」「女性なんかによって消費されるべきものじゃない」「あんなのは嘘だ/二流だ」という意識が潜んでないだろうか。しかし、そのBLを自分ごととして楽しんでいるゲイ当事者・LGBTQ+当事者がいることを忘れてはならないのではないか。

『エゴイスト』を楽しみながら、BLを楽しんでいるそのような人々が「BLと違って〜」という言葉に傷ついている。『エゴイスト』もBLも、対等に作品として語られるべきではなかろうか。

BLに改善点はある。批判はごもっともだというものも多い。しかし、『エゴイスト』を高評価するためにBLを持ち出すことは本当に理にかなっているのだろうか。